このページでは沢木さんがお住まいの鎌倉の街の四季折々の様子を当サイト管理人が紹介します。
鎌倉便り2000.10〜2001.9
鎌倉便り2001.10〜2002.5

鎌倉便り2003.6〜2004.12   鎌倉便り2005.1〜

 
2003.5.5 長谷あたり

由比ヶ浜通りから一本入った路地に吉屋信子記念館があります。普段は一般公開されておらず、年4回(5、6、10、11月の1〜3日)の限られた期間のみ見学出来ますが、今年はこの4回に加えて、3〜6月と10、11月の毎土曜日も公開されるそうです。
好天に恵まれた連休中の公開日は、おおぜいのお客で賑わっていました。
大正・昭和と活躍した女流作家、吉屋信子は新潟県生まれ。「徳川の夫人たち」や「女人平家」などで知られる彼女は、1962年に鎌倉へ移り住み、亡くなるまでの十年余りをここで過ごしました。住居は近代数寄屋造りの第一人者、吉田五十八氏の設計によるものです。
記念館のあるあたりは静かな住宅地。永井路子先生の「私のかまくら道」の“ふだん着の散歩道”で紹介されているあたりでもあります。
長谷から鎌倉駅まで、路地をゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。車や江ノ電では気が付かない鎌倉の表情が見えてくることでしょう。

吉屋信子記念館から歩いて3〜4分のところにある、鎌倉文学館では今、世界的な映画監督、小津安二郎の生誕百年を記念した企画展が開かれています。(6月29日まで)
企画展では、日記や監督用台本、絵コンテ、書簡、ロケ用三脚、愛用の帽子やカメラ、パイプなどが展示されています。(資料保護のため、5月27日から一部の展示品が入れ替わるそうです)
東京深川に生まれた小津は、少年の時に映画監督になることを志し、強い意志をもって夢を実現させます。松竹で映画監督となった彼は、自分の映画スタイルを模索し、“小津調”と呼ばれる独自のスタイルを確立します。
松竹大船撮影所で「東京物語」「晩春」「麦秋」など数々の名作を生みだした小津安二郎は、1952年から亡くなる60年まで北鎌倉に住み、多くの鎌倉文士と交流を深め、そのなかで「彼岸花」や「秋日和」などの作品が生まれました。
生涯独身を通した小津安二郎は、今、母とともに円覚寺に眠っています。

  何でもないことは流行に従う、
  重大なことは道徳に従う。
  芸術のことは自分に従う
             小津安二郎

文学館はこれからバラの季節。つぼみが大きくなってきました。連休は終わってしまいましたが、バラと小津安二郎展はまだこれから楽しめます。


緑に囲まれた静かな環境に建つ瀟洒な吉屋信子記念館

 


鎌倉文学館「小津安二郎展」のチラシ
茶目っ気のある自画像ですね

 
2003.4.27 妙本寺

 

若葉の季節になりました。大型連休(今年は少々小型ですが)始めの週末は、若々しい山の緑に誘われた多くのハイカーで賑わいました。

鎌倉駅から歩いて5分ほど、スルガ銀行角の道を入り本覚寺を通り抜け、夷堂橋を渡ると突き当たりに妙本寺の山門が見えます。古くからこのあたりを比企ガ谷(ひきがやつ)と呼んでいます。鎌倉時代には有力な御家人であった比企能員(ひきよしかず)の一族が住んでいました。
妙本寺は比企能員の屋敷跡に建っています。

山門を入ると参道には住宅が建ち並んでいますが、すぐに両側が林の坂道になります。この参道は道の上まで枝を張った木々のこずえが季節毎に違った表情を見せてくれます。
石段を登り切り、二天門を入ると祇園山の森を背景に本堂が落ち着いた佇まいで参拝者を出迎えてくれます。森の木々に囲まれ広々とした境内はいつも静かで、訪れたものの気持ちを和ませ癒してくれるようです。

鎌倉時代、ここに屋敷を構えていた比企能員の娘、若狭の局は二代将軍頼家の側室となり、男子(一幡)を生みました。頼家が重い病に罹ると、比企氏の権力が増大するのを恐れた北条氏は頼家の弟、千幡(後の実朝)を次の将軍に推し、比企氏打倒を画策します。能員を謀殺された比企一族は一幡を擁して比企ガ谷の屋敷に立て籠もり、北条や三浦、和田などの大軍勢と戦いますが、敗れて一族は滅亡します(比企の乱)。
一族滅亡の折り、能員の二歳の男の子だけが辛くも逃げ延び、成人して京で順徳天皇に仕える高名な学者となりました。のちに許されて鎌倉へ帰り、日蓮の弟子となり父の屋敷跡に建てたのがこのお寺です。現在も日蓮宗池上派の格式高い寺院のひとつとなっています。

妙本寺は鎌倉駅から近く、歴史のある寺ですが、いわゆる“名物”が無いためか訪れる人は以外に少なく、心静かな時を過ごすことが出来る、とっておきの場所となっています。


妙本寺の山門。右の六角形のお堂のような建物は比企ガ谷幼稚園です

 

 
参道の木立は季節ごとにいろいろな表情を見せてくれます


シャガが咲き乱れる妙本寺境内の比企一族の墓

若葉が輝き、まぶしいほど

 
2003.3.15 光明寺裏山の石仏
まだ寒さが残る鎌倉ですが、野山には怠らぬ春の歩みを感じます。
梅に代わり、沈丁花の香りが漂うようになり、白木蓮のつぼみも空に向かって開くばかりになっています。

鎌倉開府から現在に至るまで、鎌倉の都市構造の骨格を成す若宮大路が由比ヶ浜に達するあたり、滑川の河口から東側の浜は材木座海岸と呼ばれています。
このあたり、鎌倉時代は宋からの船も出入りする、国際港でした。多くの商人が集まり、活発な取引を行っていたのでしょう。また、そのころ元に圧迫された宋から多くの高僧が日本に渡ってきましたが、彼らもここから鎌倉に上陸したのかも知れません。
かつての港の姿は、日本最古の築港遺跡、和賀江島にその名残を留めています。

さて、今は静かな砂浜が広がる材木座海岸に向かって、浄土宗関東総本山の格式をもつ光明寺の壮大な山門が建っています。小堀遠州作と伝えられる庭園や石庭など見ておきたいものがあるお寺ですが、今回は光明寺境内を抜け、裏手の山に登ってみました。
裏山に建つ住宅の先に古びた鳥居がありました。その先の参道は細い山道のようになっています。山道を5分ばかり歩き、登り切った場所、山の尾根がとぎれその先が崖になった場所に小さな社がありました。名前も分からない小さな神社ですが、そこまでの山道には数多くの石仏が並んでいました。
石仏は高さが30cmほどで、享保、元文などと年号が読めるものがいくつもあり、多くが江戸時代のものと思われました。
日が西の空に傾き、赤みが差してきた日射しを浴びた石仏の、穏やかなお顔に気持ちがとても和らいで来ます。どんな人が何を願って、あるいは願がかなって、これらの石仏を納めたのか、今はもう知る由もありませんが、往時の人々の厚い信仰を感じました。

山を下り、光明寺へ戻って境内の案内板をみると、裏手の山に「秋葉山大権現」と記されていました。あの神社のことなのでしょうか。
山門を出て路地を抜けるとすぐに海岸です。引き潮の広い砂浜には多くの人たちが散歩を楽しんでいました。


鎌倉では建長寺と並ぶ壮麗な光明寺の山門



夕日を浴びて佇む石仏は、人々のどんな思いを受け止めてきたのでしょうか
  
 
2003.1.13 初春

正月休みを過ぎてから、鎌倉も気温の低い日が続いていたのですが、成人式の連休は晴天に恵まれ暖かい日でした。

陽気に誘われ、北鎌倉を歩きました。少し前まで寒い日が続いていたのに、今年もロウバイがちゃんと咲いていました。
東慶寺は、いつ来ても丹精が込められた美しい庭を拝見することが出来る、何度来ても楽しみが尽きないお寺ですが、この季節に花が咲いているのはロウバイのみ。梅の枯木立に囲まれた中で唯一の存在を示すかのように鮮烈な香りを放っていました。
今度の週末もはかなげな黄色い花と爽やかな香りを楽しむことが出来るでしょう。
瑞泉寺あたりではもう少し長く楽しめるかも知れません。

周りの梅の木は来るべき時を待ちかまえています。紅白の梅が咲き誇るまで、あとわずかです。

(写真上)
凛とした空気を感じる冬の東慶寺境内

(写真左)
今年もロウバイの爽やかな香りが静かな境内に漂います

 
2003.1.1 ゆく年くる年

鎌倉には円覚寺、浄智寺、東慶寺、瑞泉寺、妙本寺、杉本寺、光明寺など除夜の鐘をつかせて下さる寺が多くあります。
長谷寺もそんなお寺のひとつで、大晦日の夜には毎年多くの参拝者が集まります。
普段は入ることの出来ない深夜、灯籠の光は静かに揺れて観音様のお顔を映し出し、響き渡る鐘の音は、一年を振り返り新しい年の平和を祈る気持ちにさせられます。

長谷寺を出て、大仏様へ向かいました。
一年を通して多くの観光客を集め賑わう長谷の大仏ですが、この夜静寂の中に御座しますのをはじめて見ました。
鶴ヶ岡八幡宮からは初詣客のざわめきが聞こえてくるころ、大仏様は静かに新年を迎えていました。

静かに新年を迎える大仏様
(上)除夜の鐘をつく順番を待つ参拝客-長谷寺
(下)初詣客で大混雑の八幡宮参道
 
2002.12.3 化粧坂切通し
鎌倉七切通しのひとつで“けわいざか”と読みます。
鎌倉駅西口を出て紀ノ国屋前を右折、今小路を寿福寺、英勝寺を過ぎてしばらく歩き、谷戸の奥に建つ海蔵寺手前の小道を左に折れ、住宅地の坂道を抜けると、まもなく急な坂道に変わります。これが化粧坂切通しです。

紅葉も終わりに近づいた、晩秋の切通しを歩きました。
今は緑深く細い山道の風情の化粧坂ですが、鎌倉時代は幹線道路だったと言います。鎌倉時代半ばまで、東海道の藤沢から鎌倉へ入る道は、化粧坂切通しか稲村ヶ崎の険しい岩場を越える(後にこちらには極楽寺坂切通しが出来ました)かの二つだったのです。
化粧坂と何か艶めかしい名前を持った切通しですが、その名の起こりは、平家の武将の首をここで化粧して首実検に備えたからとも、ここに遊女の里があったからとも言われ、はっきりしていないようです。

化粧坂を登り切った先にある葛原が岡神社は、鎌倉時代末期に倒幕運動を起こして捕らえられた公家・日野俊基が処刑された場所です。
日野俊基処刑の翌年(1333年)、鎌倉へ攻め寄せた倒幕軍に対し、ここを守った北条方は三万騎、そのほとんどが討ち死にしたと言われます。ここにも「もののふの都」鎌倉の血なまぐさい歴史が伝えられています。

紅葉に彩られた山が鮮やかな季節に歩いたのに、華やかさよりも林のほの暗さが印象に残ってしまうのは、こんな陰惨な歴史、滅びの歴史を感じて歩いてしまうからかも知れません。


晩秋の化粧坂切通し

 
2002.9.29 釈迦堂口トンネル
かつて鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結んだ金沢街道は、鎌倉の主要な幹線道路のひとつでした。金沢街道沿いの浄明寺と呼ばれているあたりは、幕府からも近く、鎌倉の中心でした。
浄明寺にある釈迦堂ヶ谷は、北条泰時が父義時のために釈迦堂を建てたことからこの名が付いたそうです。
かつてはこの浄明寺から大町(名越)方面へ抜けるのに、釈迦堂口トンネルを使うことが出来ました。今は崩落の危険があり、通行止めになっていることもあって、付近は緑に溢れた静かな山道の風情を感じさせます。
浄明寺の住宅地を抜け、釈迦堂ヶ谷のすこし急になった山合いの坂道を登っていくと、眼前に唐突に、灰白色の岩肌をむき出しにした釈迦堂口のトンネルが圧倒的な迫力で現れます。
荒々しい岩肌の陰影と、差し込む陽の光の対比が心に残る、魅力的な場所です。是非、晴れた日に訪ねてみてください。

<お詫び>
29日に「釈迦堂切通し」としてUPした後、ふと気になって、作家の永井路子先生にお尋ねしました。
永井先生のお答えは次のようなものでした。
「切通しというのは、天井が無く上が開放された道のことを言うので、釈迦堂切通しと呼ぶのは間違い」
「鎌倉時代は現在のトンネルより上にあった道を通っていたようだ」
先生の指摘を受けて文章を改めました。
永井路子先生は鎌倉に長く住まわれ、鎌倉を舞台にした歴史小説も書かれており、鎌倉の歴史に非常にお詳しい方です。先生のお書きになった「私のかまくら道」は、私達の鎌倉歩きの参考書です。
釈迦堂トンネル(浄明寺側)
釈迦堂トンネル(大町側)
 
2002.8.15 路地歩き

前回に続き、路地の話しです。
路地歩きに惹かれるのはなぜだろうか。理由を考えてみました。
私の場合、一番の理由は道の角をひとつ曲がっただけで、知らない町に来てしまったような不思議な感覚に浸れることのようです。
いつものように歩きなれている道を辿っているときに、ふと横丁に入っただけで、思いがけない風景に出会ったり、知らなかった近道を見つけたり、良く知っているはずの地域が違って見えてくる。そんなワクワクするような瞬間を楽しんでいるのです。
さて、極楽寺坂切通しを下った「坂の下」の、とある狭い路地の海に向かって曲がった緩い坂道を歩いていくと、路の途中にウインドサーフィンなどのボード置き場があります。この季節は特に若者で賑わっているそのあたりから、海の煌めきが目に飛び込んできます。
狭い路地から急に視界が広がる開放感と、夏特有の浜辺の解放感が、とても心地よくつい足早に海に向かってしまいました。たどり着いた浜辺はウインドサーファーとギャラリーでいっぱい。浜辺のカフェ(通年営業)からは音楽が流れ、まさに夏!の風景に溢れていました。


夏の海といえば、鎌倉花火大会。例年8月10日だったのが、週末にあたると人出が多すぎて危険ということで、今年から8月の第2火曜日に変更になっての開催でした。
今年は風もあり見物には絶好の天気。呼び物の水中花火も一段と華やかになった感じでした。(今年の水中花火写真

路地を曲がると海が目に飛び込んできました

坂の下海岸は、遊泳禁止区域。ここの主役はウインドサーフィンと水上バイクです。賑わう海岸を海水浴客にサーファー、ウインドサーファー、水上バイクなどと漁業が巧く棲み分け、共存しています。

 
2002.6.16 路地の魅力
鎌倉へ車で行くのは止めた方がよい、とは良く言われることです。
これは道路がいつも渋滞しているから、という意味で使われることが多いのですが、それだけではなく「車では見逃してしまうものがある」と言う意味もあると思っています。
3年ほど前に、市が「鎌倉景観百選」を募集したことがあります。広く一般募集したその中には、もちろん誰でも思い浮かぶ鶴ヶ岡八幡宮や段葛、寺院や海岸などの歴史的景観や自然景観が挙げられる一方で、住宅地の生け垣や塀、門などの身近な景観も思いの外多く挙げられていました。
これは、市民が愛しているのは歴史的な建造物だけではなく、今の鎌倉の落ち着いた佇まいや暮らしだということの表れのように思えます。そのような“市民が本当に大切にしているもの”も是非見て頂きたいと思います。
しかし、残念なことにそんな落ち着いた町並みも、急速に失われているのが鎌倉の現状でもあります。生け垣に囲まれたお屋敷が、ある日気が付くと3〜4軒の分譲住宅に変わってしまっていることも珍しくありません。広い庭の緑が失われ、道が広くなり、現代的な住宅が取って変わってしまうのです。
抗することが出来ない時代の流れかも知れません。
せめて今の鎌倉の景観を目にとどめておこうという気持ちにも動かされて、鎌倉の小径をまた歩くのです。

緑に溢れ落ち着いた路地の風景
 
HOME